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インド5000年の歴史

 

インダス文明

紀元前2600年頃より、インダス川流域にドラヴィダ人によるインダス文明が栄えた。複数の都市よりなる文明である。ハラッパーとモエンジョ・ダーロなどの遺跡が知られるほか、沿岸部のロータルでは造船が行われていた痕跡がみられ、メソポタミアと交流していた可能性がある。後世のインド文明に与えた影響として、沐浴の習慣やリンガ信仰などを挙げることができる。

 

民族系統は不明だが、ドラヴィダ人はメソポタミアから移住して来ている。地中海周辺に起源を持つらしく、地中海人種を祖先に持つとされる。現在では主に、南インド四州すなわちタミル・ナードゥ州、ケーララ州、アンドラ・プラデーシュ州、カルナータカ州を中心として居住している。

 

紀元前1800年頃から、紀元前1500年頃にかけてインダス文明の都市は放棄される。砂漠化または気候の変化が理由だと言われる。

アーリヤ人の南下

紀元前1500年頃から、アーリア人のインド北西部への移住が始まる。これに伴いドラヴィダ人はインドを南下する。


紀元前1300年頃から、アーリア人はドラヴィダ人を奴隷化し始める。ヴァルナという階級制度を作り出し、アーリア人はバラモン司祭階級と、クシャトリア王族・貴族、ヴァイシャ一般市民を独占し、 ドラヴィタ系の民族は奴隷階級のシュードラに封じ込められたと思われる。さらにその下にこれらのうちのどの階級にも属することのできないアチュート(不可触民、ダーリット、アンタッチャブル、ハリジャンとも呼ばれる)がいる。

 

ヴァルナとはサンスクリット語で色を表し、もとは肌の色による差別体系のことを指す。

 

ヴァルナはのちにジャーティーと呼ばれる職業別の身分差別結びつきカーストと称される。ジャーティーの職業は数千にも分類されており、これらの職業はほとんどが世襲制でこの世に生を受けた時点で彼らの運命は決まっていた。


紀元前1000年頃から、アーリア人はガンジス川流域へ移動、先住民を支配して定住・農耕生活に入った。神々への賛歌であるヴェーダを重視したのもこの時代である

十六大国

ガンジス川流域で農耕が発展すると、徐々に商工業の発展も見られるようになり、諸勢力が台頭して十六王国が興亡を繰り広げる時代へと突入した。

 

こうした中で、祭司階級であるバラモンがその絶対的地位を失い、戦争や商工業に深く関わるクシャトリヤ・ヴァイシャの社会的な地位上昇がもたらされた。

 

十六大国のうち、とりわけマガダ国とコーサラ国が二大勢力として強勢であった。この二国の抗争は、最終的にマガダ国がコーサラ国を撃破した。紀元前4世紀後半、そのマガダ国のナンダ朝をチャンドラグプタが打倒したことで、マウリヤ朝が成立した。

マウリヤ朝

紀元前4世紀、最初の統一国家であるマウリヤ朝が成立し、紀元前3世紀におけるアショーカ王の時代に最盛期を迎えた。官僚制が整備され、属州制を導入するなど中央集権的な統治体制が形成され、秦やローマ帝国と並ぶ古代帝国が築き上げられた。

 

しかし、アショーカ王の死後より弱体化が進み、紀元前2世紀に滅亡した。

クシャーナ朝

マウリヤ朝の滅亡後、中央アジアのクシャーナ朝がインダス川流域に進出し、プルシャプラを都としてカニシカ王のもとで最盛期を迎えた。

 

カニシカはその治世の間に仏教に帰依するようになり、これを厚く保護した。このためクシャーナ朝の支配した領域、特にガンダーラを中心に仏教美術(ガンダーラ美術)の黄金時代が形成された。この時代に史上初めて仏像も登場している。

 

3世紀、ササン朝ペルシアのシャープール1世による遠征を受けて衰退し、滅亡へと至った。

グプタ朝

4世紀、グプタ朝がパータリプトラを都として成立し、北インドを統一した。イラン系の外来王朝であったクシャーナ朝に対し、グプタ朝はインドの土着王朝であった。チャンドラグプタ2世の時代に最盛期を迎えたが、その後は中央アジアからの侵入に悩まされ、6世紀半ばに滅亡へと追い込まれた。



グプタ朝時代に栄えた美術は、これまでギリシア文化の影響が色濃かったガンダーラ美術に代わり、純インド的な仏教美術として知られ、グプタ美術、グプタ様式と呼ばれる。代表的なものとして、アジャンター石窟寺院の壁画や「グプタ仏」と呼ばれる多くの仏像、特に薄い衣がぴったりとはり付いて肉体の起伏を露わにする表現を好んだサルナート派の仏像が知られる。

 

また、サンスクリット文学は最盛期の時代で、二大叙事詩であるマハーバーラタ』、『ラーマヤナ、宮廷詩人カーリダーサの戯曲『シャクンタラー』や『メーガドゥータ』などが生まれる。マヌ法典もこの時期に完成した。


バラモン教と民間信仰が結びついた形で、ヒンドゥー教がこの時代に確立され民衆に広まった。一方、仏教教団も勢力を保ち、アジャンター石窟寺院やエローラ石窟寺院などにおいて優れた仏教美術が生み出された。また、ナーランダ僧院が建てられて教典研究が進められた。しかし、都市部の寄進などによって教団が成り立っていた仏教は、グプタ朝の弱体化・分権化にともなってその保護者を失っていった。

ラージプット時代

7世紀からは北西インドでラージプットの諸王朝が分立。ラージプットの語は、サンスクリット語の「王子」を意味するrajaputraから生まれた言葉で、この語は、11世紀以後、北インドや西部インドのヒンドゥー系の王侯、戦士集団のカースト名称として使用されるようになった。

 

この時期、エローラ石窟群やカジュラホなどが建設された。プラティハーラ朝、パラマーラ朝、チャウハーン朝のほか、カジュラホの寺院を建設したチャンデーラ朝が著名である。

 

ラージプットの、版図は小さいが強力な王国群はムガル帝国の初期まで存続し、尚武の気風とヒンドゥー教徒の独立を守るために激しく抵抗したことで知られる。特に、その中でも、メーワール国だけは、ムガル帝国から独立を維持し、19世紀初めまで続いた。

デリー・スルタン朝

インドのイスラム化

南インド

10世紀後半、サーマーン朝(中央アジアの王朝)のアルプテギンがアフガニスタンで自立し、ガズナ朝を建てた。彼らはたびたび北インドへ侵入した。ガズナ朝にかわり台頭したゴール朝も北インドに進出し、この地の統治を図った。

 

ゴール朝のアイバクが、1206年にデリーで奴隷王朝を建てて自立した。れより約300年、デリーを都とした五王朝が興亡を繰り広げた。この時代をデリー・スルタン朝と称する。

 

13世紀よりデリーに都を置くデリー・スルタン朝が北インドをあいついで支配し、14世紀初頭には、デカン遠征を行い、一時は全インドを統一するほどの勢いを誇った。


この頃、北インドではスーフィー(イスラーム神秘主義者)の活動によって、徐々にイスラムが普及していった。

 

一方南インドでは、10世紀後半ころからドラヴィダ系のチョーラ朝がインド洋貿易で繁栄した。11世紀前半には、商業上の覇権をめぐって東南アジアまで遠征を敢行した。その後、14世紀後半から16世紀初頭にかけてヴィジャヤナガル王国が栄えた。1498年にヴァスコ・ダ・ガマがカリカットへ来訪したことを契機に、ポルトガル海上帝国も沿岸部に拠点を築いた。

ムガル帝国

16世紀、中央アジアでティムール帝国が滅亡すると、ティムールの一族であるバーブルが北インドへ南下し、デリー・スルタン朝を倒してムガル帝国を建てた。

 

3代皇帝のアクバルは、ヒンドゥー教徒との融和を図るとともに統治機構の整備に努めた。しかし、6代皇帝のアウラングゼーブは、従来の宗教的寛容策を改めて厳格なイスラム教に基づく統治を行ったために各地で反乱が勃発、帝国は衰退にむかった。

文化的には、宮廷でペルシア色の強いインド・イスラム文化が発展した。当時のムガル絵画はイランのミニアチュール(細密画)の影響がみられるほか、宮廷内ではもっぱらペルシア語が使用され、ムガル帝国の代表的建築であるタージ・マハルも、イラン系技術者が多くかかわっていた。

英仏の進出

17世紀、イギリスとオランダが東南アジアで衝突し、イギリスは東南アジアから駆逐されたためインドへ進出した。しかし、インド産の手織り綿布をイギリス東インド会社がヨーロッパに持ち込むと大流行となり、イギリスは対インド貿易を重視した。一方、フランスも徐々にインド進出を図っており、利害が対立した両国は、アメリカ大陸と同様にインドでも抗争を続けた。


イギリスによる

植民地化

18世紀後半、七年戦争によってフランスをインドから駆逐すると、1765年にベンガル地方の徴税権を獲得したことを皮切りにイギリス東インド会社主導の植民地化が進み、マイソール戦争・マラータ戦争・シク戦争などを経てインド支配を確立した。

1813年より産業革命を既に成し遂げていたイギリスから機械製綿織物がインドへ流入、インドの伝統的な綿織物産業は破壊された。さらに、地税制度を導入したことも、インド民衆を困窮させた。こうした要因から1857年、セポイの反乱、シパーヒーの反乱、インド大反乱などが起こった。徹底的な鎮圧を図ったイギリスは、翌年にムガル帝国を完全に滅ぼし、インドを直接統治下においた。

1877年には、イギリス女王がインド皇帝を兼任するイギリス領インド帝国が成立した。

英植民地時代

イギリスはインド統治に際して分割統治の手法をとった。インド人知識人層を懐柔するため、1885年には諮問機関としてインド国民会議を設けた。しかし、民族資本家の形成に伴い反英強硬派が台頭したこと、日露戦争における日本の勝利、ベンガル分割令への憤りなどから反英機運が一層強まった。

 

こうした中、イギリスは独立運動の宗教的分断を図り、親英的組織として全インド・ムスリム連盟を発足させた。

世界大戦とインド

第一次世界大戦で、自治の約束を信じてイギリスに戦争協力したにもかかわらず裏切られたことや、民族自決の理念が高まったことに影響され、インドではさらに民族運動が高揚した。

 

マハトマ・ガンディーの登場は、いままで知識人主導であったインドの民族運動を、幅広く大衆運動にまで深化させた。ガンディーが主導した非暴力独立運動は、イギリスのインド支配を今まで以上に動揺させた。

 

一方、 ガンディー主導の国民会議派から決裂したチャンドラ・ボースが日本の援助によってインド国民軍を結成し、急進的独立をめざすという動きも存在した。

 

インドの国会議事堂の正面にはチャンドラ・ボース、右にはガンディー、左にはジャワーハルラール・ネルー(インド初代首相)の肖像画が掲げられている。

独立

大戦後、インド内のヒンドゥー教徒とイスラム教徒の争いは収拾されず、イスラム教国家のパキスタンとの分離独立となった。初代首相にはネルーが就任した。

 

ネルー自ら社会主義者である事を宣言し、経済面でマルクス主義的な社会主義経済開発政策を打ち出し、国際的には非同盟・中立の外交を推進した。

 

1954年、中国の周恩来と会談を行い、領土主権の尊重、相互不可侵、内政不干渉、平等互恵、平和共存の五つからなる「平和五原則」を掲げた。しかし、中国との間に国境紛争が発生、1962年には大規模な武力衝突がおこ る。

 

1965年にはカシミールをめぐってインド・パキスタン両国間に戦争がおこった。 パキスタンとの対立はその後も続き、三度の印パ戦争が勃発した。両国の対立は現在も続いている。

 

ネルーの死後、娘のインディラ・ガンディー(マハトマ・ガンディーと血縁関係は無い)があいついで首相となった。1971年末には東パキスタンの難民問題をめぐって、パキスタンと開戦して勝利を収め、東パキスタンをバングラデシュ人民共和国として独立させた。

 

また1974年インドは核開発に成功し、6番目の核保有国となった。

 

1971年の選挙で選挙違反が指摘され、1975年アラハバード高等裁判所が選挙違反を認め、インディラ・ガンディーに有罪の判決を下し、議員資格停止を決定すると、対抗してインド全国に非常事態令を宣言し、反対勢力を強権で排除した。非常事態令は7ヵ月後停止された

 

このため、1977年総選挙では惨敗したが、1980年に首相に復帰した。しかし1984年、シーク教徒に暗殺され、次男のラジーブ・ガンディーがあとを継いだ。

 

1989年の総選挙では国民会議派(Indian National Congress)の政権が倒れ、ヒンドゥー
至上主義の立場をとるJanata Dalが一時政権を握ったが、1991年、ラジーブ・ガンディ暗殺後の選挙で国民会議派が政権を回復した。

 

90年代後半にはインド人民党(BJP)主導の連立政権が発足。核実験を実施し、経済の自由化を完成させたが、大方の予想に反し 、2004年の総選挙ではソニア・ガンディー (ラジーブ・ガンディー夫人でイタリア出身)率いる国民会議派を中心とした統一進歩連盟(UPA)に政権を奪われるに至った。

 

2006年現在、国民会議派がインド下院の第一党である。